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四国のバフェット!? 高知の賢人が率いる某信金は・・・

公営住宅 ? 民業圧迫!! 無駄な公共事業!?

軍艦アパート 偉大なる既存不適格物件!?

世間の常識、常識の嘘!?・・・地球温暖化、少年犯罪その他・・・

酩酊したって、いいじゃない、だって、○○なんだもん

やっぱり株屋は信用できない!!

知ったかぶりを叩いてみれば、頓珍漢♪と音がする!?

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朝日新聞の責任は重い

従軍慰安婦の捏造報道は、どれくらい罪が重いのか。その結果としての影響の大きさのみならず、意図を考えると、今までに発覚した捏造報道以上に、罪深いものだと思わざるを得ません。

昨今の食品偽造問題が目先の小さな偽装だとすれば、朝日新聞の捏造報道は…。

しかも、それが、無反省に繰り返されながら、今なお、なんの反省もないというのは、あまりにも無責任だと思えてならない感じです。

反差別・人権擁護などの美名に隠れて…

朝鮮人は頭がないから鮮人とはよく言ったものなのか、どうなのかはともかくとして、最近、再び、耳にする言葉であります。不逞鮮人…朝鮮人・韓国人の特徴を捉えているのかどうかもともかくとして、どこか的をえた言葉であるかのようで、心地よく聞こえる言葉でもあります。

「犯罪はいつも朝鮮人」とか「財布をすられたまた鮮人か」…戦後の混乱期の実体に即した言葉であるものの、その後の反差別の報道統制のもとで、韓国人・朝鮮人の犯罪者は、日本名で報道され、その実体が隠されてしまいましたが、再び、注目されているのは、瞠目に価するのかも知れません。

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反差別・人権擁護の名のもとに、あまりにも在日韓国人・朝鮮人が優遇されてきた実体。それを知るにつけ、反差別・人権擁護の欺瞞性をつくづくと思い知らされる思いがしています。誰もが反対できないような理念を掲げつつ、実体は特定の利権の優遇…、戦後の日本にあまりにも蔓延しすぎた風潮かもしれません。

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昨今の嫌韓流は、そういった戦後の歪みをただす良いきっかけとなって欲しいと願う感じです。


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鮮人いろは歌留多

テーマ : 日本と韓国 - ジャンル : 政治・経済

韓流との訣別~鮮人いろは歌留多

特定の民族への嫌悪感は負の連鎖を生むものでしょうが、その見本とも言えるのが、中国と韓国。特に韓国は目に余るものがありますが、坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い、政治家や特定の活動家の主張だけなのかはどうかはともかく、在日諸氏のあり方も含めて、色々気になるところが思い返されます。

「犯罪はいつも朝鮮人」とか「財布をすられたまた鮮人か」とか、もともと犯罪者が多いという差別感情の払拭を狙って、韓国人・朝鮮人の犯罪者は、日本名で報道されることになりしたが、インターネットの普及と共に、真実を伺い知ることが出来るようになってきました。

それにしても、NHK、朝日新聞を先頭に、日本のマスコミは、どうして、ここまで、韓国人・朝鮮人の犯罪者の肩入れをするのか、確かに融和が必要であり、むやみな差別は許されないのかも知れませんが、ここまで、行き過ぎてしまうと、逆効果になるように思われます。


鮮人いろは歌留多~さようなら韓流

韓流ブームとやらで、韓国のドラマや音楽がいまだに放送されていますが、目障りなこと、きわまりない気がします。

テーマ : 日本と韓国 - ジャンル : 政治・経済

言葉狩り社会への不満

あの戦争は侵略であったのか否か。侵略であった側面もあることは事実であっても、それは、その時代のあり方として、やむを得ない側面があったのではないか。

いまだに靖国問題として、中国・韓国からの批判にさらされ続け、自虐的な謝罪を続けなければならないのかと問われれば、それは否と突っぱねる必要があるのではないか。

従軍慰安婦問題を日本軍が強制連行などに関与したとして、いつまでも謝罪を求め続ける人々とどう向き合うのか。軍国主義を批判したいが為に、事実を歪曲したり、反日的な勢力を煽り続けた「戦後の民主主義」を支えた人々。それも戦後という時代的状況の産物であり、戦後の中では一定の役割を果たしたと言えるとしても、もはや遺物として捉えるべきではないのか。

相変わらず繰り返される言葉狩り。歴史や時代状況などを無視し、針小棒大に騒ぎ立てて、言葉狩りによって、引きずり降ろそうとする風潮。これも、戦後の民主主義の悪しき側面なのか、それとも、それ以前から流れる風習なのか。

維新の会の騒動。感情的に許せないと思う人がいるであろう発言があったことは事実ですが、その発言をよくぞいったと思う人がいることも事実であり、許せないと思う人がいるという一面だけを大きく取り上げ、そのことを鬼の首でも取ったかのように大きく騒ぎ立てることは果たして意味があるのか、どうか。

もっと寛容になるべきではないのか。誰にでも受け入れられる人畜無害の発言は毒にも薬にもならない。暴言・失言として怒りを買う発言の中に、真実が光っている可能性があり、そのような発言を圧殺しようとするのではなく、静かに受け止める必要があるのではないか、そんな思いがしています。

西村真悟議員の発言はともかく、橋下大阪市長の発言には見るべきものがあるのではないかと思えます。批判や非難が起こるのは当然だと思いますが、西村議員を除名とは…。これは維新内部のことではありますが、もっと寛容さを持つべきではないかと思えてならない感じです。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

体罰教師擁護論

体罰教師は野放しにしてはいけないが、その存在は否定してはならない。

基本、体罰教育は過去の遺物であり、例外的な存在だと思うのでありますが、あえて今、体罰教師の存在は擁護すべきものであると思われます。

体罰を否定し、言って聞かせる、言葉を中心として、子どもの理性に働きかけるような戦後の教育の限界が指摘され、体罰復活を唱える教育論も根強いですが、コーチング論など、新しい人材育成のメソッドが開発され、現在のスポーツ教育は、新しい局面を迎えていることは事実です。

しかし、復古的な体罰教育は、副作用が色々あったとしても、完全に否定しきれない効能があることも事実であり、かつて死亡事故があった戸塚ヨットスクールの例を見ても、効能あるゆえか、パッシングに負けない支持があったことが思い出されます。

公立学校における体罰や圧迫的な指導法は許されるのかと問われれば、基本は、許されないことには同意するのでありますが、公立学校であったとしても、行政によって画一的な縛りを強化するのではなく、ある程度の教師の裁量権は認められるべきであり、教師個人のパッションにもとづく体罰は容認されるべきであると考えます。

それはなぜかと問われれば、今まさに日本社会に求められていることは、多様性を容認することであり、画一的な社会は短期的には有効であっても、大きな変化には対応できなくなり、ダイバシティー・マネージメントなどにも見られるように、功利的な観点からも、様々な多様性を担保することは必要であるからです。

ダイバシティー・マネージメントに限らず、多様性という概念が出てくると、少数人種や性別に焦点が当てられ、
特に大阪の場合、在日外国人・被差別部落・障害者・女性(!?)といったマイノリティー(!?)の権利擁護のための概念にされがちで、これが金科玉条のごとく、これまた、画一的なドグマになっているように思われます。

そこで、今、求められているのは、マイノリティーの権利擁護の概念になり果ててしまったような多様性ではなく、真の多様性であり、言葉による理性的な教育だけでなく、復古的な体罰教育であったり、最新のコーリング論であったり、今、最善と思われるもの以外の色々欠点が指摘されるものであっても、それを容認することによって、新たな可能性が生まれることを忘れてはならないのです。

生徒を自殺に追い込んだとされる体罰教師ですが、今回は不幸な結果があったとは言え、それまでには成果もあったことであり、学校に無断で寮を運営していたことも問題にされていますが、泥のついた芋が桶の中で互いにぶつかりあって磨かれるという二宮尊徳の故事にちなんで、切磋琢磨・研鑽の場として「いもこじ寮」と名付けられていたとか、そういったプラスの側面にこそ注目すべきであり、これとて、コンプライアンス重視の事なかれ主義であれば、悪い結果が生まれてなかった可能性もありますが、結局は何も生まれなかったのです。

寮を運営すれば、喫煙からボヤが出してしまうこともあれば、喧嘩やイジメが出たり・・・、そういった問題が事前に予測され、普通の人間なら、二の足を踏むところですが、そういった不祥事も人間の成長の糧になるのも事実であり、不祥事を怖れ、コンプライアンス重視が過ぎると、毒にも薬にもならない事なかれ主義ばかりの教育となってしまいます。

体罰とて同類で、毒になることもあれば、薬にもなることがあり、結果として、生徒を自殺に追い込んでしまったことは残念なことであっても、自殺の引き金があっとしても、それを防ぐ手だけは、周辺の人間が用意していれば、自殺は発生することはなく、自殺を怖れて、当たり障りのないことばかりをしていても、何も生まれなかったのであり、体罰教師の蛮勇は、責められると同時に、擁護されても良いのではないかと思えてならない感じです。

体罰教師を非難したり、学校の管理を強化していこうとするのではなく、自分が指導していた生徒が自殺してしまうという不幸をどう乗り越えるのか、その教師がどう成長していくのか、それを手助けすることにこそ、教育の未来が存在していると思えてならない感じです。

テーマ : 学校への意見 - ジャンル : 学校・教育

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