スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

朝日新聞の責任は重い

従軍慰安婦の捏造報道は、どれくらい罪が重いのか。その結果としての影響の大きさのみならず、意図を考えると、今までに発覚した捏造報道以上に、罪深いものだと思わざるを得ません。

昨今の食品偽造問題が目先の小さな偽装だとすれば、朝日新聞の捏造報道は…。

しかも、それが、無反省に繰り返されながら、今なお、なんの反省もないというのは、あまりにも無責任だと思えてならない感じです。
スポンサーサイト

反差別・人権擁護などの美名に隠れて…

朝鮮人は頭がないから鮮人とはよく言ったものなのか、どうなのかはともかくとして、最近、再び、耳にする言葉であります。不逞鮮人…朝鮮人・韓国人の特徴を捉えているのかどうかもともかくとして、どこか的をえた言葉であるかのようで、心地よく聞こえる言葉でもあります。

「犯罪はいつも朝鮮人」とか「財布をすられたまた鮮人か」…戦後の混乱期の実体に即した言葉であるものの、その後の反差別の報道統制のもとで、韓国人・朝鮮人の犯罪者は、日本名で報道され、その実体が隠されてしまいましたが、再び、注目されているのは、瞠目に価するのかも知れません。

hanzai.jpg  saihu.jpg


反差別・人権擁護の名のもとに、あまりにも在日韓国人・朝鮮人が優遇されてきた実体。それを知るにつけ、反差別・人権擁護の欺瞞性をつくづくと思い知らされる思いがしています。誰もが反対できないような理念を掲げつつ、実体は特定の利権の優遇…、戦後の日本にあまりにも蔓延しすぎた風潮かもしれません。

nureginu.png

昨今の嫌韓流は、そういった戦後の歪みをただす良いきっかけとなって欲しいと願う感じです。


gomi.jpg

鮮人いろは歌留多

テーマ : 日本と韓国 - ジャンル : 政治・経済

韓流との訣別~鮮人いろは歌留多

特定の民族への嫌悪感は負の連鎖を生むものでしょうが、その見本とも言えるのが、中国と韓国。特に韓国は目に余るものがありますが、坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い、政治家や特定の活動家の主張だけなのかはどうかはともかく、在日諸氏のあり方も含めて、色々気になるところが思い返されます。

「犯罪はいつも朝鮮人」とか「財布をすられたまた鮮人か」とか、もともと犯罪者が多いという差別感情の払拭を狙って、韓国人・朝鮮人の犯罪者は、日本名で報道されることになりしたが、インターネットの普及と共に、真実を伺い知ることが出来るようになってきました。

それにしても、NHK、朝日新聞を先頭に、日本のマスコミは、どうして、ここまで、韓国人・朝鮮人の犯罪者の肩入れをするのか、確かに融和が必要であり、むやみな差別は許されないのかも知れませんが、ここまで、行き過ぎてしまうと、逆効果になるように思われます。


鮮人いろは歌留多~さようなら韓流

韓流ブームとやらで、韓国のドラマや音楽がいまだに放送されていますが、目障りなこと、きわまりない気がします。

テーマ : 日本と韓国 - ジャンル : 政治・経済

言葉狩り社会への不満

あの戦争は侵略であったのか否か。侵略であった側面もあることは事実であっても、それは、その時代のあり方として、やむを得ない側面があったのではないか。

いまだに靖国問題として、中国・韓国からの批判にさらされ続け、自虐的な謝罪を続けなければならないのかと問われれば、それは否と突っぱねる必要があるのではないか。

従軍慰安婦問題を日本軍が強制連行などに関与したとして、いつまでも謝罪を求め続ける人々とどう向き合うのか。軍国主義を批判したいが為に、事実を歪曲したり、反日的な勢力を煽り続けた「戦後の民主主義」を支えた人々。それも戦後という時代的状況の産物であり、戦後の中では一定の役割を果たしたと言えるとしても、もはや遺物として捉えるべきではないのか。

相変わらず繰り返される言葉狩り。歴史や時代状況などを無視し、針小棒大に騒ぎ立てて、言葉狩りによって、引きずり降ろそうとする風潮。これも、戦後の民主主義の悪しき側面なのか、それとも、それ以前から流れる風習なのか。

維新の会の騒動。感情的に許せないと思う人がいるであろう発言があったことは事実ですが、その発言をよくぞいったと思う人がいることも事実であり、許せないと思う人がいるという一面だけを大きく取り上げ、そのことを鬼の首でも取ったかのように大きく騒ぎ立てることは果たして意味があるのか、どうか。

もっと寛容になるべきではないのか。誰にでも受け入れられる人畜無害の発言は毒にも薬にもならない。暴言・失言として怒りを買う発言の中に、真実が光っている可能性があり、そのような発言を圧殺しようとするのではなく、静かに受け止める必要があるのではないか、そんな思いがしています。

西村真悟議員の発言はともかく、橋下大阪市長の発言には見るべきものがあるのではないかと思えます。批判や非難が起こるのは当然だと思いますが、西村議員を除名とは…。これは維新内部のことではありますが、もっと寛容さを持つべきではないかと思えてならない感じです。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

体罰教師擁護論

体罰教師は野放しにしてはいけないが、その存在は否定してはならない。

基本、体罰教育は過去の遺物であり、例外的な存在だと思うのでありますが、あえて今、体罰教師の存在は擁護すべきものであると思われます。

体罰を否定し、言って聞かせる、言葉を中心として、子どもの理性に働きかけるような戦後の教育の限界が指摘され、体罰復活を唱える教育論も根強いですが、コーチング論など、新しい人材育成のメソッドが開発され、現在のスポーツ教育は、新しい局面を迎えていることは事実です。

しかし、復古的な体罰教育は、副作用が色々あったとしても、完全に否定しきれない効能があることも事実であり、かつて死亡事故があった戸塚ヨットスクールの例を見ても、効能あるゆえか、パッシングに負けない支持があったことが思い出されます。

公立学校における体罰や圧迫的な指導法は許されるのかと問われれば、基本は、許されないことには同意するのでありますが、公立学校であったとしても、行政によって画一的な縛りを強化するのではなく、ある程度の教師の裁量権は認められるべきであり、教師個人のパッションにもとづく体罰は容認されるべきであると考えます。

それはなぜかと問われれば、今まさに日本社会に求められていることは、多様性を容認することであり、画一的な社会は短期的には有効であっても、大きな変化には対応できなくなり、ダイバシティー・マネージメントなどにも見られるように、功利的な観点からも、様々な多様性を担保することは必要であるからです。

ダイバシティー・マネージメントに限らず、多様性という概念が出てくると、少数人種や性別に焦点が当てられ、
特に大阪の場合、在日外国人・被差別部落・障害者・女性(!?)といったマイノリティー(!?)の権利擁護のための概念にされがちで、これが金科玉条のごとく、これまた、画一的なドグマになっているように思われます。

そこで、今、求められているのは、マイノリティーの権利擁護の概念になり果ててしまったような多様性ではなく、真の多様性であり、言葉による理性的な教育だけでなく、復古的な体罰教育であったり、最新のコーリング論であったり、今、最善と思われるもの以外の色々欠点が指摘されるものであっても、それを容認することによって、新たな可能性が生まれることを忘れてはならないのです。

生徒を自殺に追い込んだとされる体罰教師ですが、今回は不幸な結果があったとは言え、それまでには成果もあったことであり、学校に無断で寮を運営していたことも問題にされていますが、泥のついた芋が桶の中で互いにぶつかりあって磨かれるという二宮尊徳の故事にちなんで、切磋琢磨・研鑽の場として「いもこじ寮」と名付けられていたとか、そういったプラスの側面にこそ注目すべきであり、これとて、コンプライアンス重視の事なかれ主義であれば、悪い結果が生まれてなかった可能性もありますが、結局は何も生まれなかったのです。

寮を運営すれば、喫煙からボヤが出してしまうこともあれば、喧嘩やイジメが出たり・・・、そういった問題が事前に予測され、普通の人間なら、二の足を踏むところですが、そういった不祥事も人間の成長の糧になるのも事実であり、不祥事を怖れ、コンプライアンス重視が過ぎると、毒にも薬にもならない事なかれ主義ばかりの教育となってしまいます。

体罰とて同類で、毒になることもあれば、薬にもなることがあり、結果として、生徒を自殺に追い込んでしまったことは残念なことであっても、自殺の引き金があっとしても、それを防ぐ手だけは、周辺の人間が用意していれば、自殺は発生することはなく、自殺を怖れて、当たり障りのないことばかりをしていても、何も生まれなかったのであり、体罰教師の蛮勇は、責められると同時に、擁護されても良いのではないかと思えてならない感じです。

体罰教師を非難したり、学校の管理を強化していこうとするのではなく、自分が指導していた生徒が自殺してしまうという不幸をどう乗り越えるのか、その教師がどう成長していくのか、それを手助けすることにこそ、教育の未来が存在していると思えてならない感じです。

テーマ : 学校への意見 - ジャンル : 学校・教育

解散総選挙ではなく、協力すべき所は協力して・・・

自民党総裁選挙が終わりましたが、また阿倍さんですか・・・という感想が私にも近いものがあります。改正建築基準法・貸金業法・金融商品取引法など、規制強化による官製不況。戦後の日本のあり方を見直す必要は認めるものの、「美しい国」の名のもとに、お上の強権によって、国民を一方向に向けさすような教育改革など、保守の旧弊が色濃く、途中で政権を投げ出したことなども忘れることが出来ない出来事です。

衆議院解散の声が高まっているようですが、選挙が繰り返されて、短命政権が大量生産されるより、これなら問題が多い民主党政権とはいえ、野田首相のもと、与野党が足を引っ張り合うのではなく、挙国一致となるような最大公約数を見つけて、国難を乗り越えるよう力を尽くして欲しい気がします。原子力発電所の再稼働問題、尖閣問題、社会保障改革など、足の引っ張り合いを行っている状況ではなく、一日も早い解決が望まれます。

原子力発電所が再稼働できずに、電力会社に積み上がる赤字は誰が責任をとるのか、そもそも、政府がこのような強権を発動して、損害を与えることが許されるのかどうか、そして、その負担をどうするのか、きわめて現実的に考える必要があります。東京電力だけでなく、震災によって事故を起こした訳でもない電力会社が債務超過に陥った場合、公的資金で救済するとなると、それも国民負担となってしまいます。火力発電所の稼働による電力会社の収益の悪化だけに留まらず、日本国の経常収支の悪化、電気料金が値上げとなれば、産業競争力にも大きな影響を及ぼし、すべてが国民生活に直結する緊急課題です。

こういった国難は、政権交代があったからと言って解決できる問題ではありません。民主党が下野した場合、今度は、野党としての民主党が与党の政策に反して回れば、これまた足の引っ張り合いの無策な状況となり、とんでもない事態となってしまいます。野田政権は、鳩山・菅といった前政権に比べて、関西の電力危機を前にして、一部原発の再稼働を認めた現実性を持ち合わせていますが、こういった姿勢を評価して、協力すべきは協力して、ことあるごとに、政権が行きづまり、すぐに解散・総選挙で、短命内閣の量産だけは謹んでもらいたいとつくづく思われます。

消費税増税を行う前に、生活保護や医療・年金など、膨大に膨れ上がった社会保障費などの思い切った削除、行政改革が望まれますが、自民党・社会党・公明・民社の野合の中で生まれたバラマキ政治は、このまま、自民党に政権が還ったとしても、本当に改革できるのか大変怪しく、自民が自民なら、民主も民主、どっちもどっちとしか思えないのは大変残念なことです。

橋下維新の会のような怪しい集団は危険きわまりなく、みんなの党あたりの働きに期待をしたいのですが、こちらもパワーなく、残念きわまりない状況であり、せめて、足の引っ張り合いをしたするのではなく、こつこつと無駄を省いて、スリムな政治を志向して欲しいものです。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

増税反対! 膨らんだ社会補償費(生活保護費)の大幅削減を!

膨大に膨らんだ国の債務をどうするかは確かに大問題ですが、消費増税は債務返済のために必要であるのではなく、社会福祉のために必要であるとのこと。もしそうなら、やはり、歳出削減が増税の前に必要です。現状の社会福祉を維持するために、債務を増やすことはとうてい賛成できないし、増税にも賛成できません。やはり、まず第一に必要なのは歳出削減であり、今、話題の生活保護費に限らず、社会福祉の予算は、弱者保護の美名に隠れて、あまりにも闇に包まれ過ぎています。膨大な医療費、介護保険、年金やら、このままでは、いつのまにか収入の5割を徴収されてしまう社会になってしまいます。

ちょっとした風邪で病院にかかり、念のためと言う名のもとに、意味不明な検査をたくさん受け、本当に必要かどうかわからないたくさんの薬が処方され・・・、確かに、風邪は万病のもと、素人判断で放置するよりも、早めに手厚い医療ケアを受けた方が、トータルで安くつく場合もありますが、過剰の医療受診を避け、自然治癒力を高める方が、安くつく場合もあります。念のためにと病院に行く方がよいのか、行かない方が良いのは、ケースバイケースであり、病院に行きたい人の医療費を病院に行かない人が負担をする保険制度には、不公平感がつきまといます。高額医療費のある程度の公的保険による公費負担は必要最低限必要だとは思いますが、高齢者の終末医療に高額の資源が使われたり、生活保護受給者が贅沢な医療を無償で受診している現状は改める必要があります。自分の甲斐性、贅沢な治療方法を選択するのは、まさに個人の自由ですが、強制徴収された保険料や税金を投じて、贅沢な治療は慎むべきです。

生活保護で問題なのは、健康で文化的だと言われる生活水準があまりにも高く設定され過ぎていることだと思えてなりません。単身者の住宅補助金がなぜ月額4万円を超えているのか? 風呂なしアパートなら月額1万円でも、ゴロゴロ空室があり、月額2万円台のワンルームマンションにもたくさんの空室があります。家賃には地域格差がありますが、生活保護受給者が高額家賃の地域に住む必要があるのでしょうか? 高齢や病気による生活保護受給者は言うに及びませんし、仕事の関係でやむを得ないと言う場合もあるかもしれませんが、それなら1年限定とか期限を設けるべきです。その仕事を続けても、1年たっても生活保護から抜け出せないなら、家賃の格安な地域で、それに見合った仕事に従事すべきなのです。

高額所得者の母親が生活保護を受給していたことが問題になっていましたが、これに関しては、心情的には納得しがたいと思う一方で、親族による扶養の義務は撤廃すべきだと思えます。未成年であるならば、親に子供を扶養する義務はあったとしても、親子であろうと、兄弟であろうと、血縁関係があるという理由によって、扶養義務を持ち出すことは極めて、前近代的な考えであり、個人として、扶養するしないを決定する権利を持つのではないでしょうか?

高額所得者が母親を扶養したいと思い、その親もそれを受け入れるなら、それはそれで結構なことだと思いますが、貧乏で親を扶養できないという人よりも、高額所得者の方が、堂々と権利を行使する権利があるのではないかと思えます。なぜなら、高額所得者の母親が生活保護を受給していたとしても、その財源はその高額所得者が納税した税金の額より少ないのではないでしょうか? 

もっと分に応じた暮らしをするべきなのです。医療費補助だとか、居住費補助だとか、家電補助だとか、エアコンをつけるお金がないと別途保護費を支給したり、文化的な生活にはテレビが必要だとか、洗濯機だとか、炊飯器だとか・・・贅沢すぎるのです。現状の制度のもと、生活保護受給者が、高級外車を乗り回したり、ちょっとした外出にもタクシーを利用したりと、どう考えても不公平感がありますが、生活保護が必要最低限の現物支給であり、社会復帰に必要な一時的なものであるなら、預貯金をしようが、自動車を持とうが、携帯電話を持とうが自由であり、行政が調査して回る必要はないと考えます。

行政のケースワーカーの人数が足りないと、焼け太りのような行政の拡大が画策されようとしてますが、生活保護の需給要件は緩くする一方で(行政コスト削減のため、審査を甘くし、少々の不正受給はある程度は仕方がないものとする一方で)、生活保護の受給が既得権であるような現状は大きく変更する必要があります。エアコン完備のワンルームマンションは生活保護の家賃補助の対象から外すべきであり、正月の餅代とか、通院のためのタクシー補助だとか、贅沢な補助は即刻やめるべきです。

もっと簡素な必要最低限ものにして、わざわざ生活保護費を不正受給をしても、何の得もないという程度のものにすべきなのです。文化的で最低限の生活の水準が高く設定され過ぎているゆえに、生活保護が既得権のようになってしまっているのではないでしょうか? 住居は風呂なしアパートか築30年以上の市営住宅。食糧は学校給食の残飯。衣類は古着の現物支給。家電製品は自分で廃品回収して修理して使用。医療機関への受診も制限すべきで、新薬の使用は臨床実験を除いて不可とし、投薬はゾロ薬のみ。これぐらいの節約が必要なのではないでしょうか? 少々賞味期限切れた残飯が支給されたとしても、それでも食べられるだけ有り難いのであり、テレビが見られないからと言って、文化的な生活が出来ないとも言えず、図書館に新聞を読みに行くこともできれば、病院のロビーで週刊誌を読むなど、色々工夫の余地はたくさんあります。

増税議論はそれからで十分です。

テーマ : 生活保護 - ジャンル : 政治・経済

橋下大阪市長への期待と不安

橋下大阪市長の大阪都構想や教育改革など疑問に感じつつも、公務員改革や生活保護などの膨れ上がった福祉の改革などには期待する所が大きく、すべてを支持できる政治家などいないので、トータルとしてみれば、評価したい感じです。

大きな政府か小さな政府かと問われれば、小さな政府。自由な競争のある社会がいいか、平等を志向する福祉社会が良いかと問われれば、自由な競争のある社会が大枠では良いとは思っても、教育現場への競争原理の導入、点数主義や教師への評価などには疑問を感じます。

大阪の教育界は、理念的色彩の強い同和教育・人権教育など社民的色彩が強いものが根強い印象を受けますが、橋下市長のそれらへの反発には、ある意味、共感を受けつつも、その他の啓蒙的理念的色彩の強いものを否定して、教育界を一般社会と同じ土壌に引きずり降ろそうという側面には、少しそら恐ろしい情念のようなものを感じてしまいます。生徒や保護者による教師への評価を導入するなど、その最たるもので、一般の教師不振の感情を煽って、教養に裏打ちされた教える立場に立つ人間を引きづり降ろすことに、力点が置かれているように思えます。

思想信条の自由、良心の自由という理念のもとに日の丸に起立しない教師の問題、教育委員会の無責任や教職員組合との馴れ合いなどの他、学力の低下という最大の問題も改革を要する大きな課題ではありますが、橋下氏のトップダウンの手法を見ていると危うさを感じざるをえません。かつて民主的で理念的であったゆえに、身動きが取りにくくなってしまっていたドイツのワイマール共和国からヒトラーが人々を扇動して、ファシズム体制を構築して、世界大戦へと歩んでいった歴史を思わずにはいられない感じです。

高福祉・高負担や様々な既得権や規制で身動きがとれなくなってしまって沈没してしまいそうな日本。経済的な地盤沈下の激しい大阪は、その象徴のような存在ではありますが、人々の不満を煽ってのトップダウンの改革手法は、一歩間違うと、とんでもない結末を生み出してしまう危険があると不安に思わずにはいられない感じです。


小さな政府
肥大化した官僚組織のスリム化
公務員改革
増税ではなく、減税。
規制緩和による経済の活性化。
訳の分からない福祉のバラマキ、医療の改革


自民党でもない、民主党でもない
そして、軍拡・復古主義でもない第三の勢力を心から望む感じです。

 hasimoto.jpg watanabe
 みんなの党・渡辺喜美氏は、果たして・・・???



テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

犬料理・猫料理、鯨を食べることは野蛮なことなのか?

最近、猫の糞尿に悩まされ、なんとか猫退治は出来ないものかと、猫について調べていると、猫料理なるものもあることが分かってきて、私に替わって、猫に天誅を加えてくれている人がいるようで、なんだか痛快な気分になっています。といっても、自分で猫を掴まえて、その皮を剥いで…ということをやりたいとは思わないのですが、文化の多様性について思いを馳せずに入られない感じです。

野良猫なのか、放し飼いの飼い猫なのか、猫の糞尿被害は甚大で、許し難いものですが、退治するのは本当に難しい感じです。罠を仕掛けると猫は簡単に引っかかるようですが、それを保健所に持って行くとなると、やはり、心理的な抵抗を感じてしまいます。猫を放し飼いにしたり、野良猫に餌付けをする人の中には、猫が自由に歩き回り、人の庭を荒らすことなどは当然のことで、それに腹を立てている人間の方が間違っていると確信している人がいることを知ると、やはり、野良猫を放置できないと思う感じです。

そんなことを考えていると、鯨を食べることは野蛮なことなのか?という問を思い出しました。鯨肉といえば、学校給食でよく食べた鯨カツが思い出されるので、今さら鯨肉を食べたいとは思わないのですが、捕鯨反対運動やら、フカのヒレは残酷だととか、イルカを殺すなとかいう運動を見るにつけ、そこはかとない違和感を感じてきました。

猫好きの人にとって……と言っても、猫料理・猫肉が好きという意味ではなくて、猫愛護の人にとって、猫を殺すことは許されざる蛮行なのでしょうが、猫料理を嗜んできた人にとっては、猫を食べることは、何でもないことであったり、誇るべき伝統文化である可能性もあります。猫料理が好きな人にとっても、猫を殺すことに気持ちの悪さを感じている人は多いかもしれませんが、それは牛豚でも同じことで、動物を殺すことは、多かれ少なかれ野蛮さを伴うものかもしれません。

犬料理については、昔から中国大陸・朝鮮半島で一般的であると聞いていましたが、中国でも、韓国でも、欧米の動物愛護運動の影響を受けてか、どちらも、オリンピックの開催にあわせるかのように、表向きは禁止されてしまったとかで、何やら考えさせられる思いです。

とは言え、上に政策あれば、下に対策あり! 犬料理は、伝統食として、そのともしびは消えていないそうですが、東アジア・東南アジアのみならず、かつてはフランスなどにおいても食用であったとか…。

犬好きの私(ペットとしての犬が好きという意味で、犬料理が好きという意味ではない!)としては、犬が殺されるのは忍びない思いがするのですが、犬を食べる文化を持つ人を野蛮だとは思いません。自分が犬を殺すことが出来るのかと問われれば私は犬を殺すことは出来ないし、牛豚を殺すこともできません。魚を絞めることさえできないのですが、刺身となっていれば、平気で食べることは出来てしまいます。ここに矛盾はないのかと問われれば、矛盾はあるとも言えるし、ないとも言えます。自分で手を下すことは出来ないのですが、その成果を頂くことは平気である……食に限らず、こういう場面は多々ありますが、冷酷な高利貸しのような取り立ては出来ないけれど、高利貸しにお金を貸す銀行預金は平気だし、自動車の部品を油まみれになって作ることは出来なくても、エアコンの効いたタクシーに乗ることは平気で出来ます。

牛豚を食べる時、その屠殺の瞬間を思い浮かべる必要などないのです! お米を食べる時、そのお米を作ったお百姓さんを思い浮かべろ、なんてことをいう道徳もありますが、そのものの起源をそんなに真剣に問う必要などないのです! 確かに、そのお米はお百姓さんが育てたものでありますが、そこまで遡ったとしても、そこに立ち止まる必要はなく、光合成や地球の起源、宇宙の起源にまで、思いを巡らせ、遡るべきなのです! 牛豚とて同様であり、鯨であれ、犬猫であれ、血にまみれた屠殺の瞬間に立ち止まる必要はなく、受精の瞬間、生命の誕生、宇宙の起源にまで遡れば、屠殺の瞬間が残酷であるとか、ないとか、そんなことは、小さな問題の一つに過ぎないことに気付きます。

鯨を食べること、犬猫を食べること、それらが伝統文化であることも、小さな問題であるかもしれませんが、それを野蛮であるからやめろと叫ぶことも、宇宙の営みからすれば小さな問題です。伝統文化を尊重すべきであると考えることと、野蛮だからやめろと叫ぶことは矛盾をはらみますが、どちらも、「べき」ということを保留して、自然のままにあるようにすれば、鯨を食べること、犬猫を食べることも、自然な営みであると言えるのかもしれません。


 → 犬料理・猫料理リンク集 レシピはこちら! 理論と実践!?




DogMeat-Hanoi1.jpg

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

原発は骨の髄まで・・・

昨夏は猛暑で、地球温暖化=二酸化炭素=地球に優しい原子力発電という意見が満ちあふれていましたが、環境保護論の胡散臭さの典型だと思っていたら、案の定、やっぱり原発は危険だ・・・と、180度の展開には、これまた驚かされています。氷河期が来ると騒がれたたかと思えば、地球温暖化だと騒ぎ、今度は、放射能、放射能・・・。目の玉の座った原発反対論の市民活動家は、一貫しているのではありますが、その論はあまりにも頑なであり、やはり違和感を感じてきました。

それはなぜか・・・と考えると、菅氏に感じた違和感、民主党に感じる違和感の根幹に通じるものでありますが、菅氏が、政権最後の置きみやげのように指示したという朝鮮学校の授業料無償かとか、まさにその象徴のような気がします。極端な自民族中心主義も考え物ですが、自民族の利害を無視し、反日教育を続ける学校であったとしても、そこで学ぶ子供にも権利があり、その権利を擁護すべきであるとか、外国籍の人間であっても、税金を支払い、社会生活を行っている以上、参政権を認めるべきであるとか、いったい自分は何に立脚しているのだと考えざるを得ないような理想論を唱え、その理想論で人々を煙に巻くかのようでありながら、実はその理想論の影には、在日外国人からの献金問題などを見ると明らかなように、とんでもない真相が隠されており、なんとも言えない感じになります。

福島で大規模な事故となった今となっては、安くて安全な原子力は幻想に過ぎず、経済よりも安全という理想論が力を持ちつつありますが、やはり、ここで、その理想論の陰に隠れたものを十分に検証する必要があると思われます。外国籍の子供にも権利があり、外国人にも参政権があり・・・、そこで展開される理想論は自分たちの利害よりもまず理念から考えるべきであるという傾向がありますが、その実、その理念の影には、とんでもない、利害関係が含まれています。

原子力発電は莫大な補償金を考えると、利害から見ても現状ではすぐれたものとは言えなくなりつつありますが、しかし、今こそ、原子力発電を骨の髄まで利用しつくし、十分な補償を行うためにも、最大の利益を生みだす視点が必要であると思われます。自然エネルギーの利用も理想としては必要とは思いますが、まだまだコスト面では高すぎますし、火力に頼ったエネルギーでは資源高の影響をもろに受けるだけでなく、イスラム諸国に依存する石油や天然ガスに依存が高いことは危険であるといえます。反イスラエル親アラブの立場に立つ新左翼の活動家に一貫した原発反対論者が多かったことを想起する必要もあるかと思われます。

東京電力を吊し上げ、破綻に追い込もうとしたり、原子力発電の再稼働のハードルをことさら高くしたりするのではなく、今ある原発をどうすれば最大限活用することが出来るのか、安全を軽視すれば今回の福島の事故のように、かえって高くついてしまうことになりますが、最少の費用で最大の安全と利益を生み出す工夫を行って頂きたいと思われます。かつての東電のように、安全対策よりも地域対策、自分たちの厚生福利に費用をかけるのではなく、また、1000年に1度の津波防止のために、15メートルの防波堤を作ろうとか・・・どんなに費用がかかろうとも安全対策には費用は惜しまないとするのでもなく、最少のコストで最大の安全を引き出そうとする工夫が必要であると思われます。

古くなった原子力発電所をどうするか、やはり骨の髄まで利用しつくして頂きたい。核分裂による発電というパンドラの箱を開けてしまった以上、それを遡ってやめてしまうことは、あまりにも愚かなことです。火を使うことは危険であっても、人類が火を使うことを覚えてしまった以上は、いかにそれを安全に有効に使うか・・・。原子力事故処理は災い転じて福となすような技術やノウハウとして、古くなった発電所を延命して、最後まで有効利用する技術・・・核融合を続ける太陽の光を利用する技術も大切ですが、幅広い選択肢として、原子力の研究・利用も必要だと思えてならない感じです。人間みずからが核分裂をコントロールして利用しようというのはアングロサクソン的な自然観であり、個人的には、核融合は太陽にまかせておき、その成果である太陽光や風力を利用したり、原子力の研究は遠い異国の蛮勇な人々まかせておき、優雅にのんびり安全に暮らすというライフスタイルが理想だと思うのですが、それを維持するためにも、利害を最大化するような方法が必要不可欠であると思われます。

テーマ : 「原発」は本当に必要なのか - ジャンル : 政治・経済

最近の記事
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。