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体罰教師擁護論

体罰教師は野放しにしてはいけないが、その存在は否定してはならない。

基本、体罰教育は過去の遺物であり、例外的な存在だと思うのでありますが、あえて今、体罰教師の存在は擁護すべきものであると思われます。

体罰を否定し、言って聞かせる、言葉を中心として、子どもの理性に働きかけるような戦後の教育の限界が指摘され、体罰復活を唱える教育論も根強いですが、コーチング論など、新しい人材育成のメソッドが開発され、現在のスポーツ教育は、新しい局面を迎えていることは事実です。

しかし、復古的な体罰教育は、副作用が色々あったとしても、完全に否定しきれない効能があることも事実であり、かつて死亡事故があった戸塚ヨットスクールの例を見ても、効能あるゆえか、パッシングに負けない支持があったことが思い出されます。

公立学校における体罰や圧迫的な指導法は許されるのかと問われれば、基本は、許されないことには同意するのでありますが、公立学校であったとしても、行政によって画一的な縛りを強化するのではなく、ある程度の教師の裁量権は認められるべきであり、教師個人のパッションにもとづく体罰は容認されるべきであると考えます。

それはなぜかと問われれば、今まさに日本社会に求められていることは、多様性を容認することであり、画一的な社会は短期的には有効であっても、大きな変化には対応できなくなり、ダイバシティー・マネージメントなどにも見られるように、功利的な観点からも、様々な多様性を担保することは必要であるからです。

ダイバシティー・マネージメントに限らず、多様性という概念が出てくると、少数人種や性別に焦点が当てられ、
特に大阪の場合、在日外国人・被差別部落・障害者・女性(!?)といったマイノリティー(!?)の権利擁護のための概念にされがちで、これが金科玉条のごとく、これまた、画一的なドグマになっているように思われます。

そこで、今、求められているのは、マイノリティーの権利擁護の概念になり果ててしまったような多様性ではなく、真の多様性であり、言葉による理性的な教育だけでなく、復古的な体罰教育であったり、最新のコーリング論であったり、今、最善と思われるもの以外の色々欠点が指摘されるものであっても、それを容認することによって、新たな可能性が生まれることを忘れてはならないのです。

生徒を自殺に追い込んだとされる体罰教師ですが、今回は不幸な結果があったとは言え、それまでには成果もあったことであり、学校に無断で寮を運営していたことも問題にされていますが、泥のついた芋が桶の中で互いにぶつかりあって磨かれるという二宮尊徳の故事にちなんで、切磋琢磨・研鑽の場として「いもこじ寮」と名付けられていたとか、そういったプラスの側面にこそ注目すべきであり、これとて、コンプライアンス重視の事なかれ主義であれば、悪い結果が生まれてなかった可能性もありますが、結局は何も生まれなかったのです。

寮を運営すれば、喫煙からボヤが出してしまうこともあれば、喧嘩やイジメが出たり・・・、そういった問題が事前に予測され、普通の人間なら、二の足を踏むところですが、そういった不祥事も人間の成長の糧になるのも事実であり、不祥事を怖れ、コンプライアンス重視が過ぎると、毒にも薬にもならない事なかれ主義ばかりの教育となってしまいます。

体罰とて同類で、毒になることもあれば、薬にもなることがあり、結果として、生徒を自殺に追い込んでしまったことは残念なことであっても、自殺の引き金があっとしても、それを防ぐ手だけは、周辺の人間が用意していれば、自殺は発生することはなく、自殺を怖れて、当たり障りのないことばかりをしていても、何も生まれなかったのであり、体罰教師の蛮勇は、責められると同時に、擁護されても良いのではないかと思えてならない感じです。

体罰教師を非難したり、学校の管理を強化していこうとするのではなく、自分が指導していた生徒が自殺してしまうという不幸をどう乗り越えるのか、その教師がどう成長していくのか、それを手助けすることにこそ、教育の未来が存在していると思えてならない感じです。
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テーマ : 学校への意見 - ジャンル : 学校・教育

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